子供の頃運動場や公園の土を掘り返すと、銀色の光る小さな塊が出てきました。宝石だと思い大事に取っておいたそれは、チョコレートやお菓子のラッピングから出たただのアルミホイルの塊でした。
Jomi
Kim
新たな価値の発掘
子供の頃大好きな時間の過ごし方は宝探しだった。庭の高くそびえるもみの木の下でしばしば土をさらいながら、熱心に考古学的な発掘は遂行された。地面から何が出てくるかですって?それは陶器の破片や ガラスのかけらにすぎないのだが、陽の射す人の世界から隔離され埋葬された過去に存在した人の名残は、一度地中を旅し発掘されることで1000もの物語を孕んだ宝物へと変身したのだ。
ジョミ・キムのインスタレーションによって私たちは大地に隠蔽された宝物への素朴な驚異の感覚を取り戻すことが出来る。つまりここでは冒険と発見の感覚が地中を横断したものの出現によって呼び起こされるのだ。彼女の宝物は何ですかって?それは過去の日常生活の断片ではなく、自分の形を進化させるアルミホイルなのだ。この日常生活に深く浸透した機能的な、保護、保存のための薄膜は一旦はがされると無用のものになってしまう。
しかし、鉄の次に地殻にあるもっとも豊富で、もっとも使われている金属に関わらず、このありふれたアルミニウムは正式に発見されたとされる19世紀中頃には金や銀よりも高価な稀少金属であった。このことについては次の様なアルミニウムの伝説を再検討することも必要であろう。つまり、ローマ帝国チベリウス帝の黄金時代の変わり目に活躍したプリニウスによればかつてアルミニウムはある職人によって粘土から抽出され、驚くべき軽量の輝く見事な金属の杯として仕立て上げられ登場したことがあった。しかしこの金属の価値を知った皇帝は自分の所有する金や銀の価値を台無しにしてしまう畏れからこの職人を処刑してしまったという。
キムのインスタレーションではこの日常的な材料が、もう一度価値あるものへと姿を回帰する。錬金術的な手法で、ごくありきたりの物質は精錬され、驚くべき現象へと変化し、普段単に使い捨てとみなされているものが、ラディカルまでに新しい価値を持つことの可能性に我々は立ち会うことになるのである。つまりここではアルミニウムは本来の価値と地位を取り戻すのである。普段使いではこの物質は人工物に見え、様々な器物、飛行機から、パッケージ材料まで多種多様なものになるのだが、この物質は本来元素の一つであり、自然作用から生じた物質で、自然の中に発見され、自然の一部であるのだ。このインスタレーションでは大地から顕れ、大地へと帰る、同期的にしなやかに拡散と集合を繰り返すこの物質の原初の姿を我々に思い起こさせるのだ。
このキッチンフォイルの柔軟な可塑性形はさらなる動きと成長の意味へと可能性を推し進めていく。それはあたかも暗い湿った土壌で生きて増殖するかたまりのようだ。これはフォイルのきらきら輝く表面の反射の流れ、光の戯れに由来するが、ある瞬間フォイルは鈍く魅力に欠ける我々の間断のない消費のなれの果てとしての堆積物であったり、次の瞬間には別世界の光り輝く宝物であったりする。この逆説、即ちつねに形を変化させる状態、普段見過ごしてしまう物の再検討、地面を掘り返すこと、人の目から隠されたものを捜すこと等はアートの基本的なエッセンスとして再度確認されることであろう。こうして、ジョミ・キムのインスタレーションはメタモルフォセスの再認識と、旅をたどること、新しい物語の幕開け、そして先入観から解き放され意外性の虜になる端緒へと我々を誘うのだ。
インディペンデントキュレーター 太田エマ
意味の連鎖の外で生きるもの
アパートの前の住人の微かな痕跡である髪の毛は櫛の上に集まり、植物の輪郭を形作り、今増殖の準備を整えたところである。ヘリウムが充分に入った風船はやはり風船である。しかしヘリウムが半分抜け、へたりながら漂っている風船は風船であることから逃れようとしている。こやつはギャラリーの終了時間に私がドアを閉めようとすると、身をよじって悲しがり、翌朝ドアを開けた時、うれしそうにこちらににじり寄ってきた。固く小さく巻かれたレシートロールは一旦解き放たれると溢れ出すように容積を増やし、赤いラインの入った最後の部分で薔薇の形を結び自分を主張する。
これまでのジョミ・キム作品の印象を思いつくまま書いてみたが、それらは一見慎ましく、強い調子で自己主張することはないが、私には受動的な対象物ではなく、いつも主体的に能動的に振る舞っているように見える。そのささやかな振る舞いがあまりに興味深く、時にキュートであるので、それについて無性に人と意見を交換したくなる。彼女の作品に触れた多くの観客も同様にその体験について人と話をしたくなるようだ。つまりジョミ・キム作品は観る者をやみつきにさせるところがある。
ジョミ・キム自身も自分の作品について言葉で過剰に説明することは慎重に避けているが、制作の動機は切実であり、作品に至るプロセスには常に深い思索が伴っている。私にはジョミ・キムの作品は一貫して「もの」が意味の連鎖の体系から逃れ出そうとしていることで鮮烈なイメージと問いを観る側に投げかけているように思える。勿論、こうした制作へのアプローチは現代美術の一つの本流であり、なにもジョミ・キムの専売特許ではないが、ジョミ・キムの言葉の届かない領域、ものが本来の意味を失い、新たな様相を持って現われる場所や、時間を、我々の身辺に嗅ぎ分ける能力は群を抜いている。そしてジョミ・キムはその感性を基に次々に質の高い作品へと昇華させることの出来るスケールの大きな多産な作家なのである。
私は彼女の作品からフランツ・カフカの短編「家父の気がかり」 ‘Die Sorge des Hausvaters’‘The Cares of a
Family Man’に登場する「オドラデク」を連想することがある。「オドラデク」は誰もが見たことがあるが、誰もがその存在をすぐに忘れてしまう、無害ではあるが、世間の隙間に棲息する糸巻きのような虫のようなかさかさと乾いた声を出す存在である。時々姿をくらますが、そのまま失踪してしまうことはない。むしろ決して死ぬことはないのではないかと周囲を不安にさせたりする。「オドラデク」はどこか不気味で美とは無縁のように見える。一方ジョミ・キムの作品は消えていくことに潔く、エレガントであるが、どこか「オドラデク」と似たところがあり、謎も「オドラデク」並みにたっぷりと抱えている。どちらも意味の体系の外側の住人であり、その領域は我々の間近にあるがほとんどの人はそのことに気付かない。私はジョミ・キムの作品は表現として記述されるよりも、そこで息をしている一つの実在として、語られるのがふさわしいのではないかと思っている。
アートラボ・アキバ 地場賢太郎
ジョミ・キム作品を“体験”するということ
ジョミ・キムにはいつも裏切られる。
このタイトルならば、あるいはこのテーマならば、きっとこんな作品が並んでいるのだろうなと、ある程度は彼女の作品を知っている身としては予想するのだが、いつもその予測をはるかに超えた新作を目のあたりにすることになる。そして一体この人はどれだけの引き出しを持っているのだろうとあらためて驚かされるのだ。
その感性はしなやかで繊細であるばかりでなく、意外と大胆でもある。以前私がキュレーションしたグループ展「気配―atmosphere」(ギャラリー銀座芸術研究所。2009年)では、自分が使う壁面2面と備え付けの棚に白のペンキを丁寧に塗ってきれいに仕上げてから、1つの壁面には何の変哲もない100円ショップで売っていそうな醤油さし3個だけを展示し、棚の上には履いていた紺色の靴下を脱ぎ棄てて行った。大胆不敵。
いわゆる“ジョミさんらしい”展示物といえば、もう1つの壁面にただ1つだけ設置された、チューインガムの銀紙で精巧に折られた1cmほどの小さな蜘蛛だけ。そのあまりに小さな展示物はともすれば見過ごしてしまいがちで、一見すると何も展示していない壁面のようにも見える。このあたりもジョミ・キム作品の魅力のミソの1つかと思う。存在と非在の紙一重のあわいに潜むなにがしかのモノを彼女一流のセンサーの網で掬い上げ、独自の方法で可視化する。それをきわめて日常的な視点を保ちつつもアートの領域まで静けさを携えながら持ち上げている。まるで何もない空中から杖を振っては何かをとりだす魔術師のようだ。
「アートとは、“今・ここ”ではない別の位相に鑑賞者を連れていく装置である」という見方があるが、まさにジョミ・キムの行為からそれを思い出したりもする。彼女の作品を語るときによく言われるように、そこで使用される素材自体は私達が日ごろ親しく目にするものばかりでありながら、その作品は私達を内的な無限の旅へと誘う。決して物珍しい、あるいは大仰な装置を使うわけでなく、日々の暮らしとのリンクを断つわけでもなく、その背後にある事象に私達の目を向けさせる。しかも本人は、何の気負いもてらいもなく淡々とそれをやってのける。きわめてさらさらと自然態のままで。
ジョミ・キムの自然態―無論そこには2つの文化や制度の軋轢、そしてアイデンティティの問題、あるいは東日本大震災に先立つ阪神淡路大震災の被災体験などがいやがおうにも内包されているだろう。が、しかし、であるにせよ、ジョミ・キム作品の成立は、彼女のたぐいまれなる才によって、その本質的に“詩的”な変換能力(あるいは視覚言語の間テクスト性に対する巧みな操作能力)によって現出しているのだと私は思う。そしていつでもこちらの予測を超えた方法で私達の感覚を、概念を、とりわけ自明とされている既成概念や価値の体系を揺さぶってくるのだ。
彼女のポテンシャルはなかなかに計り知れないものがある。その意味で、今後のジョミ・キムの新たな“裏切り”を私は心待ちにしている。
アートラボ・トーキョー ディレクター 菅間圭子